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2023.04.12

引越しの原因が汚部屋だったから??

日本人は、生涯に於いて、平均約3回は引越しをすると言われています。

時間や労力、金銭面での費用が掛かりますが、主に就職や結婚など、人生の大きな節目で住処を変えるパターンが多いかと思います。

しかし、その回数を遥かに上回る引越し魔が、日本の偉人にいた事はご存じですか?

90年の人生のうち、93回も引越しをしています。

一日に3回も引っ越した記録もあるくらいで、当時の人名録で彼は「住所不定」とされています。

その名は… 葛飾北斎です。  「富嶽三十六景」などで知られる、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。

海外の有名な画家にも影響を与えた人物です。

一説には、掃除嫌いだったと言う説もあります。

そこで今回この記事では、なぜ?何?そんなに?引越しを繰り返したのか?プロフィールや原因、理由、関連を含めて紹介していきます。

プロフィール

葛飾北斎  ・江戸時代後期の浮世絵師  ・化政文化を代表する一人

 本名・川村時太郎のちに「鉄蔵」と改名。

 出生地・江戸 本所割下水(現在の東京都墨田区生まれ北斎通り付近)

 生年月日・1760年10月31日  宝暦10年(徳川家治が第10代将軍に就任)

 没・西暦1849年5月10日  嘉永2年(肉筆画「富士越龍図」制作。4月18日 浅草聖天町にある遍                      照院(浅草寺の子院)境内の仮宅にて没する。

 代表作・富嶽三十六景、千代の海、富嶽百景、東海道五十三次など

 時代、様式・浮世絵

母は吉良上野介家臣、小林平八郎の孫娘。

父は川村某氏ですが、4歳頃に江戸幕府御用鏡師「中島伊勢」の養子となり「中島八右衛門」と名乗っていたと言われています。

「己六才より物の形状を写す癖ありて」と、本人が言っている通り、6歳の頃には絵を描くことに強い関心を持っていました。

家業の鏡師は継がず、12歳のときに貸本屋の丁稚(でっち:下働き)になり、そこでたくさんの本を見て独学。

14歳の時には、木版彫刻師の徒弟となり木版印刷の技術を習得します。

しかし、18歳になった北斎は「自分がしたい事は彫りではなく絵を描く事だ」と分かり、彫刻師のもとを離れ、絵師になることを決意します。

※ 化政時代は江戸時代の町人文化の爛熟らんじゅく期であり、化政文化ともいわれ、浮世絵や歌舞伎などといった庶民にも拡がる文化が生み出されました。

 

北斎と名乗るまで

勝川春朗 時代(1778年~1794年 19歳~35歳)

1778年(安永7年)、19歳のときに当時トップの浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)に入門し、本格的に絵画の修業を始めます。

「浮世絵」とは、江戸時代に発達した風俗を描いた版画のこと。

プロの絵師が描く絵画はたいへん高価で、一部の裕福な人しか見ることができませんでしたが、版画にすることで大量生産が可能になり、庶民でも手にできる娯楽として親しまれました。

入門してすぐに「勝川春朗」の画号をもらい、翌年デビュー。

師匠には、早くからその実力を認められ、黄表紙の挿絵や、錦絵(多色刷の浮世絵版画)、洒落本、春画の挿絵、肉筆美人画も経験。「透視遠近法」を用いて建物や風景を描く「浮絵」も描きます。

20歳前後に、最初の妻(名前不詳)と結婚。

一男「富之助」、二女「お美与」、「お辰」を授かります。

一見、順風満帆に思えますが、この時代は師匠の勝川春章はもちろん「鳥居清長」や「喜多川歌麿」といった巨匠が黄金時代を形成。

しかし、北斎は画壇での地位も人気も収入も二流止まり。

しかも、兄弟子の「春好」(しゅんこう)からは絵を下手だと罵倒され、目の前で破られるなどかなりの今で言うパワーハラスメントを受けて耐える日々でした。

晩年、北斎は「自分の画法が進歩したのは、実に春好が自分を辱めたことにはじまる」と語るほど。北斎は、とにかく絵が上手くなりたい一心で、浮世絵以外の他派の絵画「狩野派」、「堤等琳」、「土佐風」や、司馬江漢に就いて「西洋画」や「明画」も学び、猛勉強します。

1793年(寛政5年)に、師匠春章が67歳で死去。北斎は「勝川派」を離れます。

※一説には、他流派を学んだことで、勝川派を破門されたとも言われています。

俵屋宗理 時代(1795年~1798年 36歳~39歳)

1795年(寛政7年)、北斎は「琳派」(りんは)に加わり、「三代目 俵屋宗理」を襲名。

琳派とは、尾形光琳・俵屋宗達を租とする一流の画派です。

北斎は、特に「美人画」に注力し、顔が細くスラリとした優美な美人「宗理美人」を完成します。

またこの頃、「洒落本」に代わって「狂歌絵本」(社会風刺や皮肉を盛り込んだ短歌と挿絵の本)や「狂歌摺物」(狂歌絵本の自費出版物)が流行し、北斎も積極的に手掛けたのです。

しかし、私生活ではちょうどこの頃、最初の妻が死去。人気のわりにはお金がなく「七味唐辛子」売りなど副業を始めますが、それでも足らず、1798年(寛政10年)、「宗理」の画号をたった4年で門人の「宗二」に売ってしまいます。

※北斎は画号が売れることに味をしめ、以降、お金に困ると弟子に売り付けたと言われています。

北斎 時代(1798年~1809年 39歳~50歳)

そんな北斎ですが、五月幟(のぼり)に「鍾馗」(しょうき:中国の魔よけの神)を描くことで2両(現在の価値に直すと約16万円)という大金を得て、志を一転。

流派には属さず、生涯画工を貫くことを誓い、1798年(寛政10年)から「北斎宗理」、「北斎辰政」(ほくさいときまさ)の号を用います。

この名前は、北斎が崇高した「北辰妙見菩薩」という、北極星を神格化した菩薩にちなんで付けられました。

私生活でも、この頃に後妻「こと」を娶り、のちに一男「多吉郎」、一女「お栄」(葛飾応為)を授かります。

1799年(寛政11年)には「不染居北斎」、1804年(文化元年)には「画狂人北斎」の号を用いて、のちに重要文化財となる「二美人図」を発表。

宗理期とは違った妖艶な美人画を肉筆画で手掛けます。

また、本格的な「読本」の挿絵も手掛けるようになり「曲亭馬琴」(きょくてい ばきん)、「柳亭種彦」(りゅうてい たねひこ)、「十辺舎一九」(じっぺんしゃいっく)と組み、一世を風靡するのです。

この時期から「パフォーマンス・アート」も行ないます。

「音羽護国寺」では、本堂前に広さ120畳の大達磨を描いた「大画」を披露。江戸幕府第11代将軍「家斉」の前では、唐紙を横にして、刷毛で長く藍色を引き、鶏の足に朱肉を付けて紙の上を歩かせ「これ立田川の風景なり」とお辞儀をして立ち去る「席画」を披露しました。

北斎が画面の大きさや観賞者の貴賤にとらわれず工夫を凝らしたことで、北斎の名前は江戸中に轟きます。

そして、ついに1805年(文化2年)、「葛飾北斎」の号を用いるようになるのです。

二人の娘と…汚部屋と…

北斎には、絵師である娘のお栄(後に応為と雅号に)がいました。

二人は絵に集中するあまり家事はせず、食器さえも持っていなかったという…。

惣菜や饅・頭を買い込んでは、包み紙やらゴミなどは傍に捨て、どんどん放置でゴミが溢れる始末。

当然、部屋は散らかる一方で「臭いし、狭いし、絵も描けない!」と我慢できなくなると新しい住まいを探し始めたといいます。

弟子の露木為一がその暮らしぶりを【北斎借宅之図】として残しています。
質素な部屋の中でこたつ布団を被って絵を描く北斎と、
火鉢にあたりながらそれを見ているお栄の姿。
お栄の後ろには炭の俵と桜餅の包み、竹の皮などが捨てられずに散らかり、
物置と、はきだめが一緒になったようだとの感想が書き添えられています。

また北斎が語った事として、
「9月から4月の間、毎日ずっとこたつから出ないで絵を描いている。
眠くなったらそのまま脇にある枕を取って寝て、眼が覚めたらまた描く。
布団にはシラミが大発生している。」などと書かれています。

そうしてゴミや汚れが限界になると、
部屋の中はそのままにして近所の長屋に移る(家ごと処分⁇脱出⁇)という事を繰り返していたというのです。

目的が「掃除をせずにきれいな部屋に移りたい」「綺麗な場所で作業をしたい」というものだったので、遠い場所には引っ越さない。

そのほとんどが、生誕地の葛飾郡(現在の東京都葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区周辺)で、離れることはなかったそうです。

30回以上の改名を経て行きついたペンネームである葛飾北斎の名のとおり、いかに自分の生まれ故郷である葛飾への愛着が強かったかが分かりますね…。

93回目の引っ越し先は、かつて自分が住んだ事のある家…。

意図的なのか偶然なのかは知る由もないですが、北斎が出て行った後は誰も住んでいなかったという…。

もちろん中は散らかったままの状態。床が見えない状態。それを見て観念したのかもしれない。

現存する北斎の作品は3万点を超えます。

これは、70年間休まずに一日1枚描いたとしても間に合わない量です。

それ以上のペースで作っていたとなれば、掃除する時間が惜しいのも理解できなくはないですけど…。

絵の天才でした! それ以外は…

先ず、人の言う事を聞きません。

江戸時代に「芸術家」という職業はなく、絵師の仕事は注文どおりに絵を描く事です。

しかし北斎は「おれは好きな絵を描きてえんだよ!」と独自路線を突き進み、よくトラブルを起こしました。

当時大人気だった小説家・滝沢馬琴の本の挿絵を依頼されて描いた時の事。

馬琴が「ぞうりを口にくわえた人を描け」と注文すると「はあ? そんなきたない絵が描けるか!てめえがぞうりをくわえてみやがれ!」とめちゃくちゃなキレ方で拒否をして、大喧嘩になりました。

他の小説家に対しても「てめえの本が売れてるのは、おれの絵のおかげだ」と高飛車な性格、態度をとり、絶交される始末でした。

目標100回

北斎の引っ越しが頻繁だった理由…それは、彼が“引っ越し100回”を目標にしていた事です。

100という数字は当時も今も、切りが良く縁起が良いとされます。

転居を100回した(達成して百庵と改名)寺町百庵と言う人物がおり、その百庵に倣って北斎も100と言う数字を目指したとされています。

※ 寺町百庵… 俳諧や和歌に精通した人物で、多くの著書を残しています。亡くなったのは天明元年(1781)。

宝暦10年(1760)に生まれた北斎が20歳過ぎの頃ですので、直接の接点がなかったともいえませんが、なぜ北斎が百庵にならおうとしたのか、その経緯ははっきりと分かりません。

ただ、おそらく負けず嫌いであったであろう北斎…。

引っ越しの数でも誰にも負けたくないと思い、寺町百庵を超えるべく、100回を目指して、意地でも引っ越しし続けていたのかもしれません。

掃除が嫌で引越しを繰り返していた!?

引っ越し100回!”を目標にしていた葛飾北斎ですが、実は一番大きな理由は、掃除が嫌いで、食べかすでも何でも放り投げたままにしていた事です。

当然、床も見えなくなる状態になります。

そのようなゴミは溜まるだけでなく、腐臭を放ちとても耐えられるものではなかったものと想像できます。

掃除をするくらいなら引っ越すという、まさに住居の使い捨てだったみたいです。

もっとも、生涯に3万点以上の作品を残していることから、掃除をする時間も惜しかったのではないかと推察できます。

さらに、共に暮らしていた娘の葛飾応為おういも、父親である葛飾北斎に似て作品の事、作業の事しか考えず、まったく掃除をしなかったため、引っ越しをするしかなかったのです。

居住地の多くは現在跡形もありません。
1・立川(本所林町ほんじょはやしちょう)三丁目
葛飾北斎30代後半から40代はじめまで、比較的長く居住しました。
2・本所亀沢ほんじょかめざわ榛稲荷神社はんのきいなりじんじゃ
当時は榛馬場はんのきばばと呼ばれ、葛飾北斎円熟期の天保年間(1830年~1844年)終わりに居住。
 

また、80歳の頃には現在の東京都墨田区東駒形ひがしこまがた一丁目に居住しており、そこでは火事で資料や素描を焼失しています。

伝わるところでは75歳までに56回(約1.3年ごとに1回のペース)、85歳から90歳までは33回(約2か月に1回のペース)引っ越しをしています。

唯一、家を構えた場所

1808(文化5)年、北斎は生涯でたった一度新居を構えました。

場所は本所亀沢町。

借家住まいを繰り返していた北斎にとって、これは一大事件です。

書画会で新築祝いを伝えたとも言われていますが、どうしたことか、翌年には再び両国付近へ引っ越しその後はまた借家住まいを繰り返していたようです。

やはりまた部屋が汚い事に耐えきれなくなったのでしょうか…。

それとも他に理由があったのでしょうか…。

この事は謎に包まれています。

引越しを止めた理由

100回という目標を持ちながら、なぜ達成せずに引っ越しをやめたのか。

謎の1つですね。
葛飾北斎が旧居をもう一度借りた時、以前自分が汚したままでまったく掃除がされていなかった事にショックを受けた為と一般的にはそう言われています。
確かにそのような状態では、その後誰も借り手がなかったことが想像され、こんなことを繰り返しても意味がないと思ったのかもしれません。
ばかばかしさや虚しさを感じ、自分の立てた目標がひどくつまらなくなったとも考えられます。
しかし、引っ越しを止めたのは80歳を越えた最晩年です。
実際のところ、体力の衰えも関係していたのではないでしょうか(江戸時代の平均寿命は30~40歳と言われています)

特に数え年で7歳(満年齢6歳頃)までの子供の死亡率が高く、成人の平均寿命は60歳くらいともいわれています。

また、この頃は肉筆浮世絵を主な仕事としており集大成の時期であったことから、引っ越しすらも時間の無駄だと考えるようになったとも推察できます。

どれくらい忙しかったのか?

北斎は超多作絵師として知られています。
現存する北斎の作品は3万点以上。
北斎は90歳まで生きたとされていますが、70年間で3万もの作品を描くとすると、1年で430枚弱描いていた計算になります。

1日に換算すると1枚以上描いていたことになります。

本当に絵を描く為だけに生きないと無理だと思います。

絵画の巨匠であるゴッホやゴーギャンにも大きな影響を与えた北斎ですが、絵の世界に入り込む力は相当なものであったことが伺えます。

多くの弟子を抱え、絵師として大成しているにも関わらず、北斎は「あと5年、いや10年生きながらえることができたら、真の絵描きになれたのに……」と常に現状に満足していなかったようです。

常に高みを目指す姿勢があったからこそ、今なお世界中に愛される絵師として、名を馳せているのだと思います。

雅号の改号も30回

葛飾北斎は住居だけでなく、雅号の改号、つまりはペンネームも頻繁に変えています。

改号数は、なんと30回…。

ここで、「葛飾北斎」以外の雅号をいくつか並べてみました。

「北斎辰政」「宗理」「辰斎」「辰政」「百琳」「画狂人」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」……

これらは葛飾北斎にとって、それぞれが意味のある名でした。

例えば「北斎」という名は、若い頃に名乗った北斎辰政ときまさの略称であり、北斗七星の別称“北辰”と“七政”から取ったとされます。

葛飾北斎が信仰していた、日蓮宗系の「開運北辰妙見大菩薩かいうんほくしんみょうけんだいぼさつ」とも関係がありました。


改号を繰り返した理由

その時々に所属した絵の流派に合わせていた

改号の大きな理由は、葛飾北斎の、自分の才能を信じ自説を決して曲げなかった時に傲慢と思える態度と奇行の為、浮世絵師仲間からは嫌われ、他のさまざまな流派に学んだことがあげられます。

その時の流派に合う名前を用いており、まだまだ自分は途上だ!可能性はまだまだ!という意思もありました。

弟子に売った

浮世絵師として安定してからの改号の理由は、弟子に売ってしまったという事です。

金だけでなく画号にも無頓着というのは、いかにも葛飾北斎らしいです。

葛飾北斎は、改号する度に画風を変化させ、名声も上がりました。

その後も、名前に執着せずに改号を続けたことも、葛飾北斎ならではのエピソードです。

後に、弟子に名前を売った為に、本物の北斎との作品で混乱が起きていました。

江戸幕府による改革!?

喜多川歌麿や蔦屋重三郎が処罰された「寛政の改革」

浮世絵や洒落本など、さまざまな庶民文化が花開いた江戸時代。

しかし、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

北斎の生きた江戸時代には享保の改革・寛政の改革・天保の改革という、いわゆる「三大改革」が行われました。

これらの改革では、質素倹約や武芸が奨励されたほか、出版・風俗が厳しく制限されます。

特に、老中・松平定信主導による寛政の改革では、美人画で名を馳せた喜多川歌麿が手鎖50日という重い刑に処され、失意の中54歳で病没。

さらに戯作者・山東京伝らが処罰されたほか、版元の蔦屋重三郎は財産の一部を没収され大打撃を受けました。

風景画で対抗!?

幕府による厳しい締め付けの中、北斎が作品を発表し続けることができたのは、彼の絵のテーマにあるかもしれません。

当時禁止されたのは「幕府の方針に反する本」「風紀を乱す好色本」「徳川家康や将軍家に関わる作品」など。北斎の作品には、富士山を多彩に表現した『冨嶽三十六景』や、全国各地の滝の名所を描いた『諸国瀧廻り』など、旅や風景をテーマにした作品が多いことから、幕府の規制を搔い潜る事が出来たのかもしれません。

そんな北斎も、もとは黄表紙(風刺がきいた大人向けの絵本)の挿絵や春画(エッチな絵)など、規制の対象となる作品を手掛けていました。

幕府による弾圧にあの手この手で対抗した結果「風景画」に足を踏み入れ、世界を驚愕させた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』など傑作の数々が生まれたのかもしれません。

弾圧??

財産を没収された蔦屋重三郎。

手鎖に処された喜多川歌麿…。の例を見るに北斎は、幕府の弾圧を逃れるために転居を繰り返していた…。

そう推測する事もできると思います。

また、作家の責任をも表す雅号を、なぜ頻繁に変えてしまったのか。

その理由として、雅号を売って収入を得ていたという事があります。

ですが、規制の対象だった春画は地下出版物として流通し、隠号を用いて幕府の目を欺く絵師もいたという事。

幕府に目をつけられたら、また名前を変えて描けばいい……。

弾圧を逃れ描き続ける為に、そんな「画狂人」らしい理由もあったのではないでしょうか。

 

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